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■帽子の渡来
わが国にフェルトの洋風帽子がはじめて伝えられたのは、今から約380年前、つまり織田信長の時代で、キリシタンの宣教師がかぶってきて、信長もたわむれにかぶってみたことがあるといわれています。

当時の帽子は、現在に伝わっている「南蛮屏風」で見られるように、クラウンの高い山高帽であったようです。といっても、もちろんちょんまげ時代のわが国で、洋風の帽子が普及したわけではなく、本格的には、幕末、維新のころまで待たねばなりませんでした。

安政4年(1856年ペルリの来航の前年)、佐賀鍋島藩で、蘭学の学生に洋服を着せたといわれます。おそらく、このとき帽子もいっしょにかぶらせたにちがいありません。

大阪市では、慶応二年春(一八六六年)、当時大阪城に出入りしていた装束商竹内清兵衛氏が、オランダ人の帽子の模倣品を試作したという記禄が残っていますが、まだ一般には普及しなかったようです。

明治天皇が明治三年に洋服を召され、その翌年に軍人以外にも洋服の着用が許され、その年、断髪令が出て、ようやく一般にも帽子が普及しはじめます。

明治五年には軍帽が制定され、トンビに山高帽の姿もちらはらしはじめました。

当時の帽子は、もちろんすべて輸入品でしたが、そのころの帽子はみな山高帽で、その後にソフトの釜型帽子、メリケン帽子が輸入され、山を折込んだ中折帽子がはじめて入ってきたのは明治二十五年ごろでした。

一方、女性の方では、依然として島田、丸まげが全盛で、しかも断髪令の出た翌年に、女性の断髪禁止令が出るなど、女性の洋装化への道はまだまだ遠いという状態でした。

その中で、明治20年に日本赤十字の看護婦の制服、制帽が白で制定されたのが、庶民の洋装の唯一の例です。

ただし、貴婦人たちの間では、明治16年(1883年)にはじめて夜会服が用いられ、翌17年に皇后や皇妃が儀礼用に洋服を召されるようになりました。

鹿鳴舘ができあがったのは明治16年。

これから俗にいう「鹿鳴館時代」が数年つづきます。ここで上流婦人たちは、19世紀ヨーロッパ風の洋装をし、毎日のように舞踏会を催しました。今日、鹿鳴館時代の洋服として保存されているのは、蜂須賀家と三井家の両家ぐらいですが、当時の写真によってしのぶことができます。

一方、明治18年ごろから、女性の間に日本髪を廃し西洋風の束髪をさかんにしようという風潮があって、それに便乗したかたちで束髪ひろめの会が起こりました。

この束髪の流行は長くつづきますが、この髪型は従来の日本髪にくらべると簡便ではありますが、やはり断髪ほどではなく、当然の結果として、帽子の形はクラウンが浅く、広く、ブリムの広いものでした。

そして、基本的なこの形は、多少の変化をみせながらも、断髪が流行し、モポ、モガの出現する大正末期までつづきます。

なお、当然のことながら、明治初期の帽子は、すべて西洋からの輸入品でした。帽子が本格的に国産されるようになるのは、明治23年まで待たねばなりませんでした。

南蛮服の中で、いちばん服装界に影響を与えたものは、防雨、防寒としての合羽である。
また南蛮笠といわれた帽子も、当時は無帽時代であったから明治の文明開化までついに流行をみずに終わった。

当時の石版画 洋装を描いた石版画は明治20年前後にいちばん多く刷られたが、その頃の「貴顕婦人之図」と題するもので、犬をつれ、袋物を腕にし、ネックレスをした貴婦人は、靖国神社前の散歩姿である。

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