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近代日本における帽子の盛衰
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■近代日本における帽子の盛衰
明治初年、断髪令が施行された当時、ほとんどの帽子は輸入品であり、いわゆる国産ものが登場したのは、明治も11年以降で、それも生産としてはほんのわずかであった。商売として盛んになったのは明治27、8年ごろで、このころから著しい発達をみた。

というのは、戦争の勝報ごとに提灯行列があり、またすべてのお祝いを盛んにするというわけで学校生徒は皆学帽をかぶり、また帽子をかぶらなければ提灯行列に参加できないということになり、一般に使用することになったわけである。

近代帽子を最初模倣して試作したのはだれであるか、これはなかなかむずかしい問題であるが、大阪では慶応2年春、当時大阪城に出入りしていた装束商竹内清兵衛氏(ヘルメット製造商竹内清兵衛氏の先代)が、オランダ人が着用していた帽子の模造品を試作したことがあるが、一般に普及されなかったといわれ、これが大阪市における帽子製造の嚆矢であろうといわれる。もちろん東京でも模倣した人はあるはずであるが、つまびらかではない。

当時竹内清兵衛氏が製造した帽子には、蓮華帽子(生地は覆輪、サージ、ラシャなどで、ラシャは陣羽織に使ったものを利用したという)、大黒帽子(明治8年ごろ流行したもので、ラシャ、お召などで製作する)、神戸帽子(舶来の中山高帽子を模倣したもので、布を芯にしてラシャで覆ったもの)また紙の張子に黒ラシャの粉をふりかけた振かけ帽子と称するものも神戸帽子と前後してあらわれたが、それらは今日一般に用いられているフェルト、鳥打帽子、麦藁帽子などの純然たる洋式帽子に移る過渡期における状況であった。

明治五年、旧礼服を廃し、洋式がとり入れられ、明治6年1月13日、絵図姿入りにて大礼服制の改正を公布されてから、疾風の如く山高帽子が大流行した。

当時の絵姿に注意書として、「冠を脱せざるを以て礼となし、帽子は脱するを以て礼と定むべし」とていねいに脱帽姿まで書かれている。これより二十年の間、尨大なる山高帽子の輸入を見る。

頭髪がほとんどザンギリになった明治十六年、白堊の鹿鳴館が完成し、舞踏会で知られた鹿鳴館時代をつくつたのである。この風潮が下に伝わって町人も洋服を者るようになり、舶来物、ことにパリ風の洋品が多く輸入されるにいたった。

福地桜痴の「もしや草紙」の中で、ある貴紳の宴会風景を皮肉って、「扨また来賓の方々を拝見するに、男子はどうでもよろしいが、貴婦人がたは思い思いに、今日を晴れて出立ち、松茸の形したる麦藁帽子を頭に乗せては、茸狩りの意を表するものあり、黒い網を頭にぶらさげて、蚊帳を張っては面の皮が薄いという謎を示すものあり、仏蘭西の帽子、独乙の靴、伊太利のコルセット、襖地利のケレノリン、英吉利のリボン、西班牙のレース……、といっているが、これは現在の日本にもそっくりあてはめてよいようだ。

婦人の帽子はレース縁とりの略帽かボンネット、さもないと羽根飾りつき小形の麦藁帽といったものが多かったが、明治二十年四月に行なわれた首相官邸の仮装舞踏会のような極端な傾向が一般にもあったことは、「婦女唱歌之図」という、おそらくは小学校の唱歌授業であろうと思われる図をみてもうなずける。

明治二十三年、渋沢栄一、益田孝、益田克徳、馬越恭平など、財界知名の諸氏が、当時山高帽の輸入があまりにも盛んなのを憂えて、その駆逐を目的として資本金十万円で創立したのが、現在の東京帽子株式会社(東京ハット)である。

英人技師二人を招聘して、山高帽子の製造に着手したが、当時イギリスにおいて帽子輸出業者がその二名の派遣技師を激しく非難して、英国会でも輸出奨励に反するとし、問題になったのは有名である。

いかに日本がイギリスの上客であったかがうかがえると同時に、山高帽子流行の盛んなことも知ることができる。

故友田幸三郎氏の談中にある中折帽子に関する事項を紹介すると、東京帽子は当時仕事を始めたようだったが、今とは全然ちがって、この会社は大蔵省の官報局の人が小石川で始めたもので、まるで素人の集まりだったため営業も苦しかったらしい。

帝帽のできたのはそれより15、6年後のことである。東京帽子には東京市から金が出たとか。鐘紡だとか、浅野セメント、瓦斯会社、電燈会社等々を工部局がつくつたときに一緒にできたものだ。

昭和10年の組合員名簿によると、台東区、わけても以前の浅草は帽子屋の巣といわれるはどであるが、いかにしてそうなったのであろうか。故菱尾氏によれば、帽子製造のはじめは馬具屋であり、その馬具の職人が鳥越周辺におり、明治の初めより馬具が出なくなったので帽子を作るようになり、だんだんそのまわりに集まって今日のようになったということである。

日本に山高帽が入ったのは慶応二年頃、一部の名士によって着用されたのが初めてである。 当時流行の型
猪口形(右上)・こっぱ(右下)・てらゐ(左上・左下)

明治3年には太政官制服・海軍制服・陸軍徽章を制定して、制服はすべて洋服とした。
この時代から洋服採用の道が開かれたきた。(中央は伊藤博文)
明治20年頃、鹿鳴館時代の洋服婦人。
西欧の社交界にならったものだが、洋服の着用は、まだごく一部の風習。

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